天正4年(西暦1576年)越後の上杉謙信は、能登の名城であった七尾城を攻略して「霜は軍営に満ちて 秋気清し 越山を併せたり 能州の景」と詠じ、その余勢をかって奥能登平定に駒を進めた。
現在の珠洲市三崎町に上陸した上杉勢は、各地を平定し天正5年、破竹の勢いで名舟村へ押し寄せてきた。武器らしいものがない村人達は、鍬や鎌まで持ち出して上杉勢を迎撃する準備を進めたが、あまりにも無力であることは明白であった。しかし郷土防衛の一念に燃え立った村人達は、村の知恵者といわれる古老の指図に従い、樹の皮で仮面を作り、海藻を頭髪とし、太鼓を打ち鳴らしながら寝静まる上杉勢に夜襲をかけた。上杉勢は思いもよらぬ陣太鼓と奇怪きわまる怪物の夜襲に驚愕し、戦わずして退散したと伝えられている。
村人達は名舟沖にある舳倉島の奥津姫神の御神徳によるものとし、毎年奥津姫神社の大祭(名舟大祭・7月31日夜から8月1日)に仮面をつけて太鼓を打ち鳴らしながら神輿渡御の先駆をつとめ、氏神への感謝を捧げる習わしとなって現在に至っている。
御陣乗太鼓の発祥の地である名舟町は、輪島塗、朝市などで有名な輪島市街地から13Kmほど東にある海沿いの半漁村でしたが、現在では漁師は数少ない存在となっています。名舟町は70戸ほどの小さな町ですが、夏の大祭にかける意気込みは相当なもので、町をあげて祭りの準備に取り掛かり、一年の集大成というような気持ちで祭りに臨んでいます。
太鼓のリズムは始めはゆっくり、次いでやや早く、最後は最も早く打ち切る。すなわち、序・破・急の三段で打ち、これを何回も繰り返す。その間、打ち手は自由な形でミエを切るが、面に応じた身振り、身のこなしなど個性的な芸を入れるのです。非常に速いテンポで動きも早いだけに最後まできれいにその真髄を発揮して打ち切れる者は少ない。
それだけに各地の太鼓に比べ、リズム所作等がかもしだす異様な雰囲気には一種独特な迫力があり、人々の心に強く食い込んでくるのではないでしょうか。また、御陣乗太鼓は打ち手だけのものではなく、名舟町全体のものであることもこの太鼓の特徴でしょう。
昭和36年に輪島市指定文化財に、昭和38年には石川県無形文化財に指定される。